パリ大学とオックスフォード大学の誕生と英仏の歴史

パリ大学の歴史、及び当時のフランスとイギリス(イングランド)の情勢のあらましを知りたくなり、先日読んだ本や検索して見つけたこのサイトや世界史年表を参照しながら、まとめてみました。

調べたことのうち、パリ大学に関することは赤字オックスフォードに関することは青字。(ケルンさん、情報を使わせていただきました) それ以外は、かなり想像の混じった私の解説。

パリに教会や修道院付属の学校がたくさん作られるようになった起源は、フランク王国の時代にさかのぼる。そこには、シャルルマーニュの存在がある。

彼が教育熱心だったことは、たとえば、往年のかわい子ちゃん歌手フランス・ギャルの持ち歌「シャルルマーニュ大王」に歌われている。
この歌の原題は「Sacre Charlemagne サクレ・シャルルマーニュ」。
「サクレ」は英語の「sacred」だから、この題名、「聖なるシャルルマーニュ」という意味かと思いがちだが、実際のところ、「サクレ」は「○○野郎」というニュアンスで使われることが多い。
「今、ぼくらが毎日シコシコ勉強しなくちゃならないのは、シャルルマーニュの野郎のせいなのさ」という内容の歌。

世界史年表には、「シャルルマーニュによるカロリング・ルネッサンス」とある。懐かしい。高校時代に習った記憶がうっすらと。

ちなみに、シャルルマーニュが神聖ローマ皇帝になったのは800年。

1096年頃からオックスフォードで学ぶ者がいた。(byケルンさん)
これは、1066年、ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム)がイングランド征服した直後。ゆえに、オックスフォードはノルマン王朝の産物、つまり、フランス文化の落とし子だったと考えられる。

うーん、面白い。
後世になって、オックスフォードで教鞭をとった、J.R.R.トールキンという人は、ウィリアムのイングランド征服によって、イギリスの古代文化や伝統が抹殺されたことを、非常に恨みに思っていたそうだ。だから失われたイギリスの神話として「指輪物語」を始めとする作品群を著した。でも、もとをたどれば、彼の生活の糧はフランスが作ったのかもしれない。。。
 
ちなみに、1096年というのは、第1次十字軍の年。
十字軍を強力に後押しした聖ベルナールの「シトー派」ができたのが、1098年。
世界史年表の11世紀末のところを、ずーっと横に見ていくと、「ローマ教会」の欄に「スコラ哲学おこる」とある。
なるほど、そういう時代だったのか。
だからこの後、キリスト教の理論武装=神学がはやって、大学が発展したわけだ。。

1135年、スティーブン王の戴冠が執り行われ、その後しばらく、イギリスは王位継承に関してもめにもめる。
ちょうどそのころ、ウェールズにほど近い、シュルーズベリーという町で、もと十字軍兵士だった修道士カドフェルが探偵として活躍(したことになっている)。

1137年、ルイ7世、フランス国王に即位。
妃はアリエノール(エレアノール)

1154年、ヘンリー2世、イギリス国王に即位。(プランタジネット朝の始まり)
妃は同じくアリエノール!

1160年代、パリ大学の教師・学生の一部が移住してオックスフォード大学の基礎が固まる。(byケルンさん)
世界史年表によると、1163年、パリでシテ島でノートルダムの建設が始まっている。当初、パリの教育機関はシテ島にあったということだから、もしかして、シテ島立ち退きを余儀なくされた人たちがオックスフォードに移ったとか?

1167年、ヘンリー2世が英国の学生がパリ大学で学ぶことを禁止。それがきっかけでオックスフォードは急速に発展した。(byケルンさん)
世界史年表を見ると、、、「1167/68年オックスフォード大学創立」とあります。なるほど。
あっ、その隣りに、、「1170年頃、パリ大学起る」なんて書いてある!!
何をもって「パリ大学」と呼ぶのかはわからないが、学校の拠点がシテ島から現在のセーヌ左岸に移ったということと、関わりがあるに違いない。
と考えると、オックスフォード大学とパリ大学は双子みたいなものに思えてくる。
 
1180年、パリで教えていたイギリス人教師ジョン・オブ・ソールズベリー、貧しい学生のために、パリ最初のコレージュ(寄宿制学校)を作る。
同じ年、フランス国王ルイ7世死去。
あとを継いだのは、ルイ7世がアリエノールに離婚された後にめとった2番目の妃との間に生まれたフィリップ2世。「オーギュスト(尊厳)」と呼ばれるようになるフィリップは、イギリス国王つまりアリエノールの夫ヘンリーとその息子たちに対して猛然と反撃を開始。
この頃から、パリの教師や学生が教会の監視をうるさがるようになる。

1189年、ヘンリー2世の後を、次男のリチャードが継ぐ。彼は在位中、いつも戦地で勇猛果敢に戦っていたから獅子心王と呼ばれるが、その統治能力は不明。

1199年、リチャード死。ヘンリー2世の末っ子のジョン、イギリス国王となる。
ジョンの在位中、イギリスはフランス国王フィリップ・オーギュストにやられっぱなしになる。

1200年、フィリップ・オーギュスト、大学に自治のお墨付きと、きわめて特権的な手厚い保護を与える。 これはフランスの大学の歴史上、非常に大きな出来事だったらしい。

1215年、イギリス貴族、ジョン王にマグナ・カルタをつきつける。 
この結果、どうなったのかはっきりと知らなかったので、検索してみました。興味のお有りの方はWikipediaのこの記事へ。

1253年、ロベール・ド・ソルボン、貧しい学生たちのためにコレージュを作る。これが「ソルボンヌ」という名称の由縁。

パリの大学はいわば国際大学で、学生たちはフランス、ピカルディー、ノルマンディー、イギリスという4つのNationに分かれていた。

ヘンリー2世の禁止令にもかかわらず、イギリス人は相変わらず子弟をパリに送り続けたのだろう。その理由はたぶん、パリのほうが先進地域だったということなのだろう。
第一、ヘンリー自身、イギリス国王になる前はアンジュー伯アンリだったのだし、当時のイギリス上流階級はフランス出身だった。今の日本にたとえれば、地方在住の親が「我が子を東京の大学にやる」のと同じような感覚だったのではないだろうか。一方、オックスフォードは地元の質実剛健な公立大学で。ちょっと違うか。


1338年、百年戦争始まる。
1429年、ジャンヌ・ダルク登場。
1431年、ジャンヌ・ダルク火刑。

1437年、パリ大学におけるイギリスのNationはなくなり、その代わりにドイツのNationが加わる。この頃、百年戦争におけるフランスの優勢が決定的になり、イギリス人の駆逐が進んだということなのだと思われる。

1453年、イギリスはフランスにおける領地をすべて失い、百年戦争終結。

1066年以来ずっと、兄弟同然の切っても切れない存在で、また、それだからこそ、親の遺産の取り合いのようないがみ合いを続けていたフランスとイギリスが、百年戦争で決着して、晴れて(?)赤の他人になり、それぞれの道を歩むようになったのだということが、大学の歴史の中にも読みとれる。

この時期までは、イギリスとフランスの国境は決定されていなかった。下手をすれば、両国は統合されてしまったかもしれない。そういう点で、この時期の英仏の歴史は面白い。

もしも統合されていたら、言語も違っていただろう。
今の英語とフランス語の中間的な言語ができていただろう。

イギリスにとって、百年戦争の敗北は、長年恋いこがれていたヨーロッパ大陸への道を断念せざるを得なくなったことを意味し、その目は西方の海の彼方へ向くことになる。そしてついには日の沈まぬ大英帝国になる、、と考えると、まさに万事塞翁が馬。
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by foggykaoru | 2006-04-21 22:32 | 西洋史関連 | Trackback | Comments(4)

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Commented at 2006-04-24 00:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ケルン at 2006-04-24 12:53 x
数日みないうちにこんなに新情報が!!
(ネタ(疑問)だけ投げっぱなしでした)

フランスの歴史については、まったく素人なんですが、こうしてまとめられていると面白いですね。ありがとうございます。

それでもまだ、ソルボンヌとオックスフォードの関係は謎が残ります。けっこう奥の深い話なのかも。(すぐわかってしまわないところがまたおもしろい)
Commented by foggykaoru at 2006-04-24 22:04
ご心配ありがとう。ちょこっと直しました。でも、眼目は「外国という感覚ではなかった」ということなので、たいして変えてないけれど。
Commented by foggykaoru at 2006-04-24 22:06
ケルンさん。
ネタふりありがとうございました♪
これからも西洋史関係の本をいきあたりばったりに読んでいくうちに、このあたりのことが、だんだんはっきりしていくかもしれません。
乞うご期待!っていつになるかわからないけれど(苦笑)

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