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「魔のヴァイオリン」

子供の頃、心ならずもピアノを習っていたので、「隣りの芝生」的な感情もあって、ヴァイオリンに惹かれます。
まず、人間の肉声に近いことが羨ましい。
それと、弦楽器というのは、1つの音を、両の手で丹精して作り出すという感じが素敵。

この本は実用書ではないけれど、実際にヴァイオリンを弾いたり、買ったりする人には、十分に実用書として読めると思います。

面白かったのは以下の点。かっこ内が私の感想。

・「チェリーニ」という名前の、弾いた人が不幸になる「呪いのヴァイオリン」の話。
(ゴシックロマンの香り。これをテーマに小説を書いた人がいても不思議ではない。)

・今、名器とされているヴァイオリンは、作られた当初はそれほど人気があったわけではない。当時は小さな部屋で演奏されるのが中心だったから、大音量が出ることは必要なかった。ストラディヴァリやグアルネリは、職人として、個人的に、豊かな音量を出す楽器を作ることを追求しただけのこと。その後、大きなホールで演奏されるようになって、これらが名器として人気を博すようになった。
(えてしてそんなもの。どの分野でも、最初から「売れ筋」を狙うと、寿命が短くなる。)

・これらの名器はクレモナを中心とするイタリアで作られた。しかし、原材料であるバルサム唐檜が1750年に全滅したこともあり、その後はイタリアはヴァイオリン名器生産の中心地ではなくなった。
(あ~あ、自然は大切にしなくちゃ。)

・ヴァイオリンの耐久年数は200年。うまくすれば300年。
(ということは、ストラディヴァリの音色を楽しめるのも、あとほんのわずか?)

・いかに名器でも、まず上手な人が弾きこまないと、いい音が出るようにならない。その後も、適度に弾いてやらないと、ダメになる。
(だと思ってた。大金持ちのコレクターが鍵をかけてしまっておくのはいけない。)

・現在は、音楽全体のテンポとピッチが上がっている。特にピッチを挙げるためには、弦を強く張らねばならず、ヴァイオリンが受けるダメージが大きい。
(老体に鞭打って頑張ってる名器が可哀想・・・)

あと、「ストラディヴァリ」なのか「ストラディヴァリウス」なのか、よくわかっていなかったのですが、作った職人はイタリア人の「ストラディヴァーリ」で、当時はラテン語で署名するのが流行っていたから、「ストラディヴァリウス」というレッテルが貼ってある、ということだそうです。

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by foggykaoru | 2006-04-30 09:45 | 西洋史関連 | Trackback(1) | Comments(6)

誰が、何のために?

exciteが「ネームカード」なる新機軸を打ち出しました。
これを設定して、自分の興味のある分野を登録すると、同好の士と交流できるようになる・・とかなんとか。
いわゆるSNSを狙っているのかな。
でも、私はもうmixi始めちゃってて、これ以上手を広げることは無理。
(mixi入会したこと自体、すでにキャパを越えかけてます)

それでもあえてネームカードを設定したのは、アクセス解析をやってくれるのが魅力だったからです。

で、早速、アクセス解析、見てみました。

リンク元に関しては、exciteから飛んでくる人がいちばん多いのは当然。
あとは、ココにリンクを貼ってくださっているブログや、私がコメントを残したブログから。
ごく当たり前の結果です。

では、検索して飛んでくる人は? 検索ワードは何なんだろう?

時節柄、ナルニア関連のもろもろの単語が多いのは納得でしたが、それらを制したのは、なんと・・・

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by foggykaoru | 2006-04-29 10:34 | Trackback | Comments(9)

『藤田嗣治「異邦人」の生涯』

藤田嗣治展を見て、図録を買おうか、カードにしようか、それとも本でも読もうかと悩んだ末に買ったのはクリヤホルダーとこの本。買って読もうと心に決めてから、今度はハードカバーと文庫のどちらにするかで悩みました。ハードカバーのほうには、藤田の作品のカラー写真が数枚載っているのです。結局、文庫本にしました。ケチです(自爆)

藤田の生涯は、NHKの「日曜美術館」であらましを聞いてしまったため、これを読んでも多少新鮮味に欠けましたが、それでもなかなか興味深いものでした。

まずは、画家を志した藤田に対する父親の理解ある態度。愛情深かったと言えばそれまでですが、たいしたものです。陸軍の軍医だそうで。エリートです。当時のエリートというのは、現在の日本のエリートとは比べものにならないエリートだったはずで、ほんとうのエリートの持つゆとりをうかがわせます。

単身パリに渡った藤田が、悪戦苦闘の末に認められ、一躍時代の寵児になるが、日本では認められなかったというあたり、我が国の「出る杭は打たれる」土壌、そして、日本人のそねみ、ひがみ体質を強く感じます。

あと、当時の日本とパリの距離---物理的な距離だけでなく、心理的な距離も---がいかに大きかったか。

日本に限らず、一歩先を歩む人は、先駆者として尊敬される。
でも、二歩以上先を歩んでしまうと、尊敬どころか、理解されない。往々にして罵倒され、排斥される。

20世紀初頭のパリで学び、日本人の一歩先を歩むには、当時のヨーロッパの画家の手法をひたすら真似して、それを日本に持ち帰ればよかったのです。
でも、藤田は違った。ヨーロッパの亜流にとどまることを潔しとせず、独自のスタイルを確立し、それが認められた。これは二歩以上先に行ってしまったということです。

現在、たとえばニューヨークあたりに出ていって、独創性を認められたとしても、それはせいぜい一歩先に行ったということにすぎない。日本と欧米の心理的距離が、藤田の時代とは比べ物にならないほど小さくなってしまっているからです。

日本に帰国してからの藤田を襲う心ない批判、そして彼の孤独感は、読んでいてつらくなります。

この評伝で感心したのはそのバランス感覚です。
晩年、日本人との交流をほとんど絶っていた藤田について、直接話が聞けるのは、今や高齢となった藤田の未亡人だけ。でも、彼女の記憶がすべて正しいとは限らない。第一、藤田を擁護する立場にあるのだから、すべてが真実なのかどうか、誰にもわからない。(彼女にとっては真実であるけれど)
そのあたりのことが、きちんと書かれていて、著者の誠実さを感じます。

藤田は「自分を売り込むことばかり考えている」などと批判されたらしいですが、「売り込む」というのは聞こえが悪いけれど、「理解してもらいたい」と思うのは、人として当然の欲求です。むしろ彼は、いわゆる「芸術馬鹿」で、非常に不器用な人だったのだろうという気がしました。

昔の日本で藤田の作品に与えられた評価が正しいのか、間違っているのかは、それぞれが自分の目で見て、判断すればいいのです。私は藤田は優れた画家だと思います。彼の作品を何の予備知識も無く、初めて目にしたとき、心が震えたからです。

いつか、ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に、彼のフレスコ画を見に行きたいです。

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by foggykaoru | 2006-04-28 20:41 | 伝記・評伝 | Trackback(1) | Comments(2)

藤田嗣治展

先週、NHK教育テレビの「日曜美術館」で取り上げられていたのに刺激を受けて、近代美術館まで足を伸ばしてきました。土日の昼間は混んでいるだろうと思って、金曜日の6時過ぎに行ったのですが、驚くほどの混みよう。それでも、のんびりかまえていれば、絵の目の前1列目で見て回ることはできましたけれど。

フランスに帰化したフジタという画家の存在を知ったのは、かなり前のことでしたが、実際にその作品を見たのはほんの数年前、南仏はカーニュの美術館でのことでした。それ以来、彼の作品には興味を抱いてきました。

で、今回の藤田展ですが、フジタの作品をいちどきにこんなにたくさん見ることができるチャンスは、これからもめったに無いのではないでしょうか。画風の変遷がたどれて、なかなか興味深く見ました。よく思うのですが、画家というのは、身を置く場によって、ほんとうに画風が変わるものです。どこに住むかによって、運命が決まる、と言っては言いすぎでしょうけれど。

「乳白色の肌」が有名なフジタですが、彼の描く「部屋」の絵が、妙に心に残りました。あの肌の色で塗られた漆喰の壁には、なんともいえない温かみがあります。日本家屋ではなく、洋館の内部のほうに私は心惹かれます。確か、ブリジストン美術館にも、部屋の内部を描いた彼の絵があった記憶があります。

色と言えば、「黒」の使い方も印象的。有名な「カフェにて」でも、中心の女性の真っ黒なドレスが効いています。

あと、フランスの彼の家の内部を飾っていたという、手描きのタイルが楽しい。

クリヤホルダーを売っていたので、購入しました。

c0025724_23484041.jpg


拡大してみるとわかるように、1枚1枚にタイトルが書かれています。

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左上から右へ「シャンゼリゼ」「牡蠣」「図書室」
左下から右へ「金」「美術館」「アンティーク屋」

で、このクリヤホルダーに紙を挟むと、こうなります。

c0025724_23522873.jpg


どういうことか、おわかりになります?

紙を挟んでも見えるところは、クリヤホルダーの1枚目の外側に印刷されています。
紙を挟んで白く見えるようになったところは、クリヤホルダーの2枚目の内側に印刷されているんです。

クリヤホルダーの本来の使い方をすると、つまり紙を挟むと、半分のタイルが見えなくなってしまうんです。

これって、しゃれたデザインなんでしょうかね。
私としては、使っているときも、タイルが全部見えたほうが嬉しいのですが。
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by foggykaoru | 2006-04-23 00:07 | ちょっとおでかけ | Trackback(1) | Comments(12)

パリ大学とオックスフォード大学の誕生と英仏の歴史

パリ大学の歴史、及び当時のフランスとイギリス(イングランド)の情勢のあらましを知りたくなり、先日読んだ本や検索して見つけたこのサイトや世界史年表を参照しながら、まとめてみました。

調べたことのうち、パリ大学に関することは赤字オックスフォードに関することは青字。(ケルンさん、情報を使わせていただきました) それ以外は、かなり想像の混じった私の解説。

パリに教会や修道院付属の学校がたくさん作られるようになった起源は、フランク王国の時代にさかのぼる。そこには、シャルルマーニュの存在がある。

彼が教育熱心だったことは、たとえば、往年のかわい子ちゃん歌手フランス・ギャルの持ち歌「シャルルマーニュ大王」に歌われている。
この歌の原題は「Sacre Charlemagne サクレ・シャルルマーニュ」。
「サクレ」は英語の「sacred」だから、この題名、「聖なるシャルルマーニュ」という意味かと思いがちだが、実際のところ、「サクレ」は「○○野郎」というニュアンスで使われることが多い。
「今、ぼくらが毎日シコシコ勉強しなくちゃならないのは、シャルルマーニュの野郎のせいなのさ」という内容の歌。

世界史年表には、「シャルルマーニュによるカロリング・ルネッサンス」とある。懐かしい。高校時代に習った記憶がうっすらと。

ちなみに、シャルルマーニュが神聖ローマ皇帝になったのは800年。

1096年頃からオックスフォードで学ぶ者がいた。(byケルンさん)
これは、1066年、ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム)がイングランド征服した直後。ゆえに、オックスフォードはノルマン王朝の産物、つまり、フランス文化の落とし子だったと考えられる。

うーん、面白い。
後世になって、オックスフォードで教鞭をとった、J.R.R.トールキンという人は、ウィリアムのイングランド征服によって、イギリスの古代文化や伝統が抹殺されたことを、非常に恨みに思っていたそうだ。だから失われたイギリスの神話として「指輪物語」を始めとする作品群を著した。でも、もとをたどれば、彼の生活の糧はフランスが作ったのかもしれない。。。
 
ちなみに、1096年というのは、第1次十字軍の年。
十字軍を強力に後押しした聖ベルナールの「シトー派」ができたのが、1098年。
世界史年表の11世紀末のところを、ずーっと横に見ていくと、「ローマ教会」の欄に「スコラ哲学おこる」とある。
なるほど、そういう時代だったのか。
だからこの後、キリスト教の理論武装=神学がはやって、大学が発展したわけだ。。

1135年、スティーブン王の戴冠が執り行われ、その後しばらく、イギリスは王位継承に関してもめにもめる。
ちょうどそのころ、ウェールズにほど近い、シュルーズベリーという町で、もと十字軍兵士だった修道士カドフェルが探偵として活躍(したことになっている)。

1137年、ルイ7世、フランス国王に即位。
妃はアリエノール(エレアノール)

1154年、ヘンリー2世、イギリス国王に即位。(プランタジネット朝の始まり)
妃は同じくアリエノール!

1160年代、パリ大学の教師・学生の一部が移住してオックスフォード大学の基礎が固まる。(byケルンさん)
世界史年表によると、1163年、パリでシテ島でノートルダムの建設が始まっている。当初、パリの教育機関はシテ島にあったということだから、もしかして、シテ島立ち退きを余儀なくされた人たちがオックスフォードに移ったとか?

1167年、ヘンリー2世が英国の学生がパリ大学で学ぶことを禁止。それがきっかけでオックスフォードは急速に発展した。(byケルンさん)
世界史年表を見ると、、、「1167/68年オックスフォード大学創立」とあります。なるほど。
あっ、その隣りに、、「1170年頃、パリ大学起る」なんて書いてある!!
何をもって「パリ大学」と呼ぶのかはわからないが、学校の拠点がシテ島から現在のセーヌ左岸に移ったということと、関わりがあるに違いない。
と考えると、オックスフォード大学とパリ大学は双子みたいなものに思えてくる。
 
1180年、パリで教えていたイギリス人教師ジョン・オブ・ソールズベリー、貧しい学生のために、パリ最初のコレージュ(寄宿制学校)を作る。
同じ年、フランス国王ルイ7世死去。
あとを継いだのは、ルイ7世がアリエノールに離婚された後にめとった2番目の妃との間に生まれたフィリップ2世。「オーギュスト(尊厳)」と呼ばれるようになるフィリップは、イギリス国王つまりアリエノールの夫ヘンリーとその息子たちに対して猛然と反撃を開始。
この頃から、パリの教師や学生が教会の監視をうるさがるようになる。

1189年、ヘンリー2世の後を、次男のリチャードが継ぐ。彼は在位中、いつも戦地で勇猛果敢に戦っていたから獅子心王と呼ばれるが、その統治能力は不明。

1199年、リチャード死。ヘンリー2世の末っ子のジョン、イギリス国王となる。
ジョンの在位中、イギリスはフランス国王フィリップ・オーギュストにやられっぱなしになる。

1200年、フィリップ・オーギュスト、大学に自治のお墨付きと、きわめて特権的な手厚い保護を与える。 これはフランスの大学の歴史上、非常に大きな出来事だったらしい。

1215年、イギリス貴族、ジョン王にマグナ・カルタをつきつける。 
この結果、どうなったのかはっきりと知らなかったので、検索してみました。興味のお有りの方はWikipediaのこの記事へ。

1253年、ロベール・ド・ソルボン、貧しい学生たちのためにコレージュを作る。これが「ソルボンヌ」という名称の由縁。

パリの大学はいわば国際大学で、学生たちはフランス、ピカルディー、ノルマンディー、イギリスという4つのNationに分かれていた。

ヘンリー2世の禁止令にもかかわらず、イギリス人は相変わらず子弟をパリに送り続けたのだろう。その理由はたぶん、パリのほうが先進地域だったということなのだろう。
第一、ヘンリー自身、イギリス国王になる前はアンジュー伯アンリだったのだし、当時のイギリス上流階級はフランス出身だった。今の日本にたとえれば、地方在住の親が「我が子を東京の大学にやる」のと同じような感覚だったのではないだろうか。一方、オックスフォードは地元の質実剛健な公立大学で。ちょっと違うか。


1338年、百年戦争始まる。
1429年、ジャンヌ・ダルク登場。
1431年、ジャンヌ・ダルク火刑。

1437年、パリ大学におけるイギリスのNationはなくなり、その代わりにドイツのNationが加わる。この頃、百年戦争におけるフランスの優勢が決定的になり、イギリス人の駆逐が進んだということなのだと思われる。

1453年、イギリスはフランスにおける領地をすべて失い、百年戦争終結。

1066年以来ずっと、兄弟同然の切っても切れない存在で、また、それだからこそ、親の遺産の取り合いのようないがみ合いを続けていたフランスとイギリスが、百年戦争で決着して、晴れて(?)赤の他人になり、それぞれの道を歩むようになったのだということが、大学の歴史の中にも読みとれる。

この時期までは、イギリスとフランスの国境は決定されていなかった。下手をすれば、両国は統合されてしまったかもしれない。そういう点で、この時期の英仏の歴史は面白い。

もしも統合されていたら、言語も違っていただろう。
今の英語とフランス語の中間的な言語ができていただろう。

イギリスにとって、百年戦争の敗北は、長年恋いこがれていたヨーロッパ大陸への道を断念せざるを得なくなったことを意味し、その目は西方の海の彼方へ向くことになる。そしてついには日の沈まぬ大英帝国になる、、と考えると、まさに万事塞翁が馬。
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by foggykaoru | 2006-04-21 22:32 | 西洋史関連 | Trackback | Comments(4)

「フランス中世歴史散歩」

著者はペルヌー姉弟。姉というのはフランス中世史の語り部レジーヌ・ペルヌー女史。彼女はこんな本も書いてます。その弟も物書きだったとは。インテリ姉弟なのねえ・・・。

人名・地名が容赦なく出てくるので、フランス史の入門段階を終えた人向き。

「この地方で最も美しいステンドグラスがある教会はどこそこ」といった記述が多いので、フランスのマニアックな旅のネタ本としてかなり役に立ちそう。

ただし、ちょっと読みづらいところがある。翻訳に難があるような気がしないでもない。ただし、あとがきによると、これは抄訳なのだそうで、読みづらい原因はそのあたりにもあるのかも。


以下は純粋に自分のための備忘録。

・中世の国王というのは、定住の地を持たなかったという話
中央集権化して初めて、国王は自分の宮殿で落ちついていられるようになったのであり、それまでの数百年間、家来や召使いをぞろぞろひきつれて、自ら諸侯のもとをまわっていたのだと。いやーご苦労様。

・パリ大学発祥のこぼれ話
当時の学生の共通語がラテン語だった。だから、ソルボンヌ界隈を「Quartier latin カルティエ・ラタン(=ラテン地区)」という。ここまでは知っていた。が、学生たちは郷里を同じくする仲間と仲良くなり、4つのグループができあがった、というあたりは初耳。しかも、その4つのグループというのが、フランス、ノルマンディー、ピカルディー、そしてイギリス。
フランスというのは、おそらく、パリ近郊のイル・ド・フランス地方のことだろう。
ノルマンディーとピカルディーというのは北フランスの地方なのだが、そこにイギリスが加わっているというのが、私にはツボだった。中世においては、やっぱりフランス北部とイギリス南部が一つの文化圏だったんだなあ。
さらに、学生たちの多くは貧乏暮らしで、下手をすればホームレス状態?だった。それを目撃したイギリスのお金持ちが「コレージュcollege」という寄宿学校を作った。つまり、イギリスのオックスフォードやケンブリッジの「コレッジ」の起源はパリにあった。
(英仏の大学の歴史が気になって、少し調べてみました。詳細はこちら

・フランス語の「チーズ」の語源
「形作る」という意味のformerの名詞形なので、ほんとうは「formageフォルマージュ」だったが、その後「fromageフロマージュ」になった。
・・・だからイタリア語の「チーズ」は「formaggioフォルマッジョ」だったんだ!!

・中世フランス・イギリス史のヒロイン、アリエノール・ダキテーヌに関して
彼女ゆかりの文化財が多いのは、アキテーヌ地方の中心地であるボルドー周辺ではなく、むしろポワトゥー地方なのだそうだ。

・ブルターニュのアーサーの悲劇
アリエノールの有名な息子はリチャード獅子心王とジョン欠地王。ジョンは四男。三男だったジェフリーはブルターニュ地方をもらった。彼の死後はその子アーサーがブルターニュを引き継いだ。リチャード獅子心王の死後、イギリス国王になる資格はアーサーにもあったわけだが、イギリス人はフランス育ちのアーサーでなく、オバカで性格の悪いジョンを選んでしまう。そして、アーサーはジョンの手にかかって死ぬ。


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by foggykaoru | 2006-04-18 20:34 | 西洋史関連 | Trackback | Comments(9)

岡本隆三著「纏足物語」(東方選書)

c0025724_946395.jpg古本屋でこの本に手が伸びたのは、昨年末に中国に行ったことが関係していないと言えば嘘になる。

ご存知のとおり、「纏足」は中国四千年の歴史の中で生まれた、世界に類を見ない奇習である。
「纏足を施された幼女はその痛みに耐えかねて毎夜泣く」というという程度のことは、かのパール・バックの「大地」で知っていたつもりだったが、改めて詳しい説明を読むと、胸が悪くなる思いだった。恐いもの見たさで一気に読んでしまったが。

一口で「足を縛って成長をとめてしまう」と言われても、どういうことなのかぴんとこないが、図説や写真が豊富に載っているので、非常にわかりやすい。わかりやすくて、とてもキモチワルイ。
これを愛らしいと思ったなんて・・・(絶句)

纏足が「夜の技巧」にも利用されたということも、なんとなく聞いてはいたが、この本を読んで、ある程度具体的にわかった。わかったけれど・・・よくわからん。

この風習は、ひそやかな残酷性という点で、史上、群を抜いているのかもしれないが、ひょんなきっかけで生まれた流行がいつしか伝統になり、人々がそれに従わざるを得なくなるということがあるというのは、厳然たる真実である。
人間、そして人間の社会というのは、なんと奇妙なものなのだろうか。

この本は、現時点において、熱帯雨林では入手不可能。
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by foggykaoru | 2006-04-15 10:18 | 西洋以外の歴史 | Trackback | Comments(14)

成分分析(児童文学編)

成分分析第3弾。

ランサム・サガの登場人物や地名を手当たり次第にやってみたのですが、どうも空振りが多いです。

笑えたのはこちら↓

ジェイムズ・ターナーの99%はかわいさで出来ています
ジェイムズ・ターナーの1%はお菓子で出来ています

マリア・ターナーの53%はやさしさで出来ています
マリア・ターナーの35%は心の壁で出来ています
マリア・ターナーの6%はミスリルで出来ています
マリア・ターナーの3%は保存料で出来ています
マリア・ターナーの3%は勢いで出来ています

みんなは大おばさんのことを誤解しているのよっ!!(爆)



うらしまさんは「ナルニア」でなさっていますが、これがけっこうイケてます。

私の大発見はこれ↓

リーピチープの80%は気合で出来ています
リーピチープの7%は祝福で出来ています
リーピチープの6%は言葉で出来ています
リーピチープの5%は理論で出来ています
リーピチープの2%は成功の鍵で出来ています

リーピチープにばんざい三百万唱!
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by foggykaoru | 2006-04-12 20:49 | 児童書関連 | Trackback | Comments(16)

成分分析(指輪編)

成分分析第2弾。

指輪物語の95%は不思議で出来ています
指輪物語の3%は税金で出来ています
指輪物語の2%は気の迷いで出来ています

税金というのは印税のことでしょうか?(笑)


ホビットの91%は度胸で出来ています
ホビットの8%は保存料で出来ています
ホビットの1%は気の迷いで出来ています

あの耐久力は、保存料のお陰だったのね。


モルドールの71%は毒電波で出来ています
モルドールの23%は黒インクで出来ています
モルドールの3%はお菓子で出来ています
モルドールの2%は心の壁で出来ています
モルドールの1%は理論で出来ています

ほとんどが毒電波と黒インクだなんて・・・・完璧です。
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by foggykaoru | 2006-04-12 20:40 | 指輪物語関連 | Trackback | Comments(2)

佐藤康彦著「イスラエル・ウクライナ紀行―東欧ユダヤ人の跡をたずねて」

古本屋でこの書名を見て、「うへっ、渋い」と思った。
「ウクライナ紀行」だけでも十分渋いのに、イスラエルとの合わせ技ときてる。
しかし、ウクライナに行ったことがあり、イスラエルにも行きたくてしょうがない私にとって、この組み合わせはど真ん中のストライク。しかも、この人、ルヴォフにも行っている。ルヴォフというのは今のリヴィウ。私が今までに一番苦労をした、忘れられない町である。これは読まねば。

著者はドイツ文学者で、ヘルツル---私は知らなかったのだが、シオニズムの提唱者らしい---及び東欧におけるユダヤ人社会の歴史の専門家。
だから、行く先々にユダヤ人の知り合いがいるわけで、見知らぬ土地を手探りで行くといった「旅の醍醐味」は期待し過ぎないほうがいいかも。でも、学者以外にこんなテーマの旅を思いつくはずがないので、それは仕方がないというものだ。

特に前半は、イスラエルのシオニズム研究所での日々の記述が中心となっていて、厳密に言うと、この部分は「滞在記」であって「旅行記」とか「紀行」ではない。

それでも、イスラエルという国に興味があれば、けっこう楽しめる。公共交通すらストップするユダヤ教の安息日に、アラブ系のバスで移動したというくだりや、十字軍の時代にその名をとどろかせたヤッファの港の現在の姿などが、私には非常に興味深かった。

c0025724_2265836.jpgそして、研究所通いの日々を終えた著者はウクライナへ向かうのだが、その交通手段がすごい。なんと、イスラエルのハイファとウクライナのオデッサを結ぶ定期船に乗って行くのである。
一般観光客にとっては超マイナーな航路だが、東欧に故郷を持つ人が少なくないイスラエルのユダヤ人御用達なのだとか。ああ、いいなあマニアックで。

オデッサからは、タクシーをチャーターして隣国であるモルドバに入る。
そして、その首都キニショフから鉄道で再びウクライナに戻り、チェルノヴィツェ、リヴィウを経由してポーランドに入り、著者の旅は終わる。

紀行文としての白眉は、頼れる知己が少なかった「オデッサ→キニショフ→チェルノヴィツェ」の部分。文芸作品の翻訳も手がける著者の筆の確かさもあいまって、実に深い味わいがある。「旅っていいなあ」としみじみ思った。特に東欧を旅したことのある人にはたまらないはず。

私はこういう本が好きです。


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by foggykaoru | 2006-04-11 20:37 | ルポ・ノンフィクション | Trackback | Comments(5)