ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著「魔法使いハウルと火の悪魔」(徳間書店)

c0025724_14195336.jpg泣く子も黙るジブリアニメ「ハウルの動く城」の原作。

老婆に変えられてからのソフィーの心理描写がいい。
「実際に年を取ってみたら、思っていたほど恐ろしいことではないし、却って楽なこともある」
うんうん、この感じ、わかるなあ。身体のあちこちにガタがきたりもするが、年をとってからの人生というのは、意外に楽しいものだなあと、私は実感している。(まだ90歳にはほど遠いひよっこの私がこんなことを言うと、ソフィーに笑われるかもしれないが。)

若いお嬢さんたち、オバンになることを恐れることはないのですよ。

感受性が鋭くて吸収力のある子供のときに、この本を読んで、そういうことを知っておくのは、悪いことではないと思う。物事を多面的に捉える助けにもなろう。

それにしても、こんなふうに書けるのはオバンに違いないと思ったら、作者が52歳の時の作品だそうだ。やっぱりね。

このソフィーの気持ちを、アニメではどのように表現しているのだろうか。一番簡単なのは、台詞で直接言わせることだが。
また、この作品を映像化するには、魔法使いハウルを魅力的に描けなければお話にならないが、この点に関しては、既にアニメを観た友人たちが「彼を観るだけでも、十分観に行く甲斐がある」と言っていたので、きっと大丈夫なのだろう。
個人的には、スライスしたタマネギの輪っかをハウルが指でくるくるする場面が妙に印象に残ったのだが、アニメにはそういう場面はあるのだろうか? たぶん無いだろうな。

この本を読んだ直後、ひょんなことから「7リーグ靴」という題名のフランス文学作品を見つけた。(原題"Les bottes de sept lieues")  マルセル・エーメ作の短編である。まだ最初の数ページしか読んでいないが、舞台は現代のパリのモンマルトルで、子供たちが「おい、古道具屋に7リーグ靴が出ているぜ」とか言っている模様。最後まで読むかは未定。元気があったら読みます。なにしろ原書なので(汗)

7リーグ靴のことが気になったので、さらに調べてみると、イギリスの「親指トム」と、フランスの「親指小僧」(←ペローの童話)に出てくるのだということがわかった。この2つの話は、題名には耳なじみがある(ひょっとしたら読んだことがあるのかもしれない)が、どちらもはっきりとは内容を知らない。きっと元は同じものなのだろう。そして、それはケルトの伝承であるに違いない。ペローの「青ひげ」も、元はと言えばブルターニュの言い伝えらしいし。(「騎士と妖精」参照) そして、ハウルはウェールズ出身。イギリスの場合、魔法とか魔法使いというと、やっぱりウェールズとかコンウォールなのだわねえ・・・と、このところ妙にケルトづいた読書傾向になっているのは、単なる偶然なのだけれど、間接的には指輪物語の影響です。

ちなみに、翻訳者は経歴からして神宮輝夫先生つながりの人。なんとなく嬉しかったりして。
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# by foggykaoru | 2005-01-13 21:10 | 児童書関連 | Trackback(2)

中木康夫著「騎士と妖精--ブルターニュにケルト文明を訪ねて」(音楽之友社)

半分読んだところで旅行に行ったものだから、すっかり存在を忘れていた。帰国後、掃除したら出てきたので、慌てて読んだ(自爆)
私が好きなのは、どちらかというと近世。だから騎士とか妖精の時代は得意ではないのだが、この本はしっくりきた。西洋政治史を専門とする著者が、なかば趣味的に書いた本だから、却って読みやすかったのかもしれない。また、私自身が「指輪物語」を読んだことと、TVシリーズ「アヴァロンの霧」を見たことも大きいと思う。

前回ブルターニュに行く前、何冊か歴史本を読んだのだが、ケルトの地だと思っていたブルターニュが、今やフランスでいちばんカトリックの信仰の篤い土地であるという事実を知り、どう受け止めたらいいのかとまどったものだった。もちろん、(地方それぞれに生まれた文化というものもあるけれど、それはそれとして)文化とは中央から周囲に伝わり、最後には辺境に残るものなのだから、今やフランスにおいてすっかり希薄になってしまったカトリック信仰が、一番端っこのブルターニュに色濃く残っているということは、十分理解できる。でも、ケルトを求めて旅しても、実際に目にできるものはキリスト教文化だけだと思うと、行く前から空振りした気分になってしまったのだ。
この本のお陰で私の心の中にある、この割り切れなさは解消された。
曰く「ブルターニュの地にキリスト教が入ったのは、ローマからではなく、アイルランド経由だった。したがって、ブルターニュのキリスト教は、アイルランドにおいてケルト化したキリスト教であり、古代のドルイド的な色彩の濃いキリスト教だった」と。
こんなことは、西洋史を系統立って学んだ人にとっては常識なのかもしれないが。
そのケルト的なキリスト教は、16世紀から17世紀にかけて、フランスの中央集権化が進む中で圧迫されていく。たとえば、ケルト的なものの考え方は、中央王朝から派遣された宣教師たちによって一掃される。恐ろしい死に神のイメージが作り上げられた。ケルトの伝統では、船に乗せられたアーサー王が湖上の島・アヴァロンに行くように、死者は水(海や湖や川)を越え、西の地に赴くのであり、死は恐怖の対象ではなかった。

そうか、トールキン教授はケルトの死生観を作品の中に取り入れたのね。

「いや、逆だ」と教授が反論してくるのが聞こえてきそうだ。
「中つ国のエルフたちの旅立ちが、後の世に語り伝えられ、伝説として残ったのだ」という声が。

旅に直接関わるネタとしては、沈める都・イスの位置とか、行く前に知っていたらもっと感慨深かっただろうにと思うことが多々あった。もっとも、どれもかなり交通不便な場所のようで、車が無ければ行けそうにないところばかりである。アーサー王と円卓の騎士ゆかりのパンポンの森、「青ひげ」伝説の舞台、ナントの近くにある「最も美しい花の町」等々。そうそう、ブルターニュではおいしいウナギが食べられるのだそうだ。
次回ブルターニュに行くときは、この本を携えていきたいものだ。その前にまず、専属ドライバーを確保しておかなければ。
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# by foggykaoru | 2005-01-07 21:18 | 西洋史関連 | Trackback(1)

ジョン・ダニング著「謎の特装本」(ハヤカワ文庫)

児童文学に戻って以来、推理小説はとんとご無沙汰していたが、ダニングの前作「死の蔵書」がとても面白かったという記憶があって古本屋で購入。年末、ポルトガルに旅行した際、持っていき、向こうで知り合った旅行者にプレゼントしてきた。

特装本という世界があることを初めて知った。天才的な出版社(者)というか編集者(というか、装丁者?)が読みやすい独自のフォントを考案し、紙にも凝り(なんでも「何年も前にどこかの会社が何かの用途で買っておいた紙」などを探しだして使うのだそうだ)、もちろん表紙にも凝り、要するに考えられるものすべてに凝って作り上げ、ごくごく少部数出版される本のことなのだそうだ。

私はHPを作成するようになって以来、フォントや字間・行間が気になるようになってきた。そのお陰で、本来、非常に遠いはずの特装本の世界が、ある意味において、身近なものとして受け止められたという事実が、我ながら興味深かった。できあがった本を丹念にチェックして、「このページのこの単語のこの文字とこの文字はくっつき過ぎではないか」などと意見する、という下りには恐れ入ったけれど、HPをやっていると、そういうことが気になることも、実はままあるのだ。ネットは、一般人が編集者的なものの見方を学ぶ場にもなりうるということだろう。
また、ネットが普及し、電子図書館などというものの誕生も確実視される今、本に未来はあるのかといった議論があるほどであるが、特装本も本の一種、その未来はどうなるのかと、一瞬心配しかけたけれど、むしろ特装本のほうが、普通の本以上にしぶとく生き残るのかもしれない。コアな情報を伝達し、マニア心をくすぐるという点で、従来のメディア以上に多大な力を持つのがネットだからである。ネットによってこういった特殊なグッズの市場は拡大するだろうし、需要が高まることによって、新しい才能が刺激を受け、伸びていくことは十分に考えられる。特装本に限らず、これからはどんどん新しい形態のオタクアイテムが誕生し、発展していくような気がする。

「普通のものとの違いはほんのわずかなのに、普通のものよりもはるかに美しいもの」を作り上げる才能もすごいが、その魅力を見いだす方にも、並々ならぬ才能や感性が要求される。オタクの心はオタクが知る。蛇の道は蛇、などという言葉を思い出してしまうのは、失礼が過ぎようか。
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# by foggykaoru | 2005-01-05 12:03 | 推理小説 | Trackback