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心臓に毛が生えている理由

米原万理著。
あちこちに掲載されたエッセイを集めたもの。
それもかなり短めのエッセイばかりなので、1つ10分足らずで読めてしまう。
毎日、電車の中でちょこちょこ読むのには最適だけれど、家で腰を据えて読むのには向かない。
一つ一つは、文字通り小粒だけれど、そこそこ面白いです。
2006年に単行本で出たものを文庫化したものなので、もはや過去となった話題もある。ネットが人間に及ぼす影響とか、現在を予言しているような部分もあり、古いなりに興味深いのだけれど。

いちばんおもしろかったのは、巻末の池内紀氏との対談かも。
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by foggykaoru | 2014-03-16 09:36 | エッセイ | Trackback | Comments(0)

「たち」について

「再構築した日本語文法」、第一章の「名詞」を読み終えました。

「連体節」のところに
ロベール君は若いころ射撃の名手でした
→「若いころ射撃の名手だった」ロベールくんは・・・

という例があって、は~、そうだったのか~と思いました。

連体節の文体は「です・ます」調は不可で、「である・だ」調でなければならない
という規則があるのです。(実際には「です・ます調」を使うことが全く無いわけではないけれど、使うとかなり不自然になります。)
日本語を学ぶ外国人は「どうして?!ヘンなの~!」と内心不満でしょうねえ。



それはそれとして。
日本語には名詞の複数形は無い。

まあそうでしょうよ、と思って読んでいたら、
日本語には単数と複数の区別がないから曖昧だ、という人がいます

とあって唖然としました。
そうか、世の中にはそんな人がいるんだ・・・。
単数形か複数形のどちらかを選択しなくちゃならない言語なんて不便極まりないのに。ただ「犬」とか「少年」と言える日本語のほうがずっといいじゃん。

で、複数形でふと思ったんですが。

「~たち」とか「~ら」という接尾辞があります。
この接尾辞は、一般的には名詞を複数化する、と思われている。

確かに「少年たち」は「少年」の複数形、に見える。

でも、「私たち」は? 
「私たち」は「私」という人間の複数形なのでしょうか。 
「私」は1人ですよね。

「ジョンたち」という例もあります。
「ジョン1」「ジョン2」「ジョン3」・・・がいるんですか?
んなわけない。
「ジョンたち」とは、場合によっては「ジョンとスーザンとティティとロジャ」、場合によっては「ジョンとナンシイ」という意味になる。
つまり、「○○たち」とは「○○と他のメンバー」を意味する。

ただし、「彼女たち」の場合は、「彼女と他のメンバー」であり、しかも他のメンバーも女性、という条件がつく。
「○○」が性を明示する名詞のときは、ということなのかも。

以上、ほんの10分で思いついたことなので、たぶん穴だらけです。
鋭く突っ込まず、温かい(ヌルい)目で見てやってくださいませ。
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by foggykaoru | 2012-10-18 20:43 | バベルの塔 | Trackback | Comments(10)

夢が叶うのかも

「生きているうちに英国湖水地方に行く」というのが、子どもの頃の私の夢でした。
それは予想外に早く、約10年後に叶えられたのですが。

そして今、もしかしたら、私の30年来の夢(というのも変なのですが)が叶おうとしているのかもしれません。

私たちが学校で習う「国語の文法」は、明治になってから、西欧の文明を駆け足で取り入れた日本人が、英仏独語の文法(さらにそのもとになっているのはラテン語の文法)の枠組みを参考にして作り上げたもの。(学校文法のメインは橋本文法とか時枝文法と呼ばれるものです。)
だから、日本語の実態に合わないところが多い。
たとえば、「日本語では主語の省略が多い」とか。
別に私たちは省略してるわけじゃない。
「主語は必要なときだけ付ける」というほうが、我々の感覚にぴったりくるとは思いませんか?

「日本語の実態を表した文法」は、日本語だけしか知らない人には書けない。
他の言語を知ってこそ、日本語の特徴がわかるのだから。
だからと言って、英語を始めとするヨーロッパ言語ができるだけでもダメ。ヨーロッパ言語に影響され過ぎているから。私もその一人。トルコ語もタイ語も続かなかった私は、確実に英仏語に毒されている。

真の日本語文法を構築できる人、それはヨーロッパ言語とは系統の違う言語にも通じている人でなければならない。

生きているうちに、そんな人が作った日本語文法の体系を見てみたいなあ・・・

というのが、「落ちこぼれ言語学徒」あるいは「えせ言語オタク」である私の30年来の夢なのです。

今読んでいるのは小島剛一著「再構築した日本語文法」
小島氏は「トルコのもう一つの顔」と「漂流するトルコ」の著者。
英仏語、トルコ語、トルコ語とは異なるトルコ域内の諸言語の達人です。
(まだもっと他の言語にも通じていらっしゃるのかもしれませんが)

2ページ目に「日本語の文の基本構造は『述語』である」とあります。

ああ、やっぱりそうだったのよ!


「再構築した日本語文法」に関する情報はこちら
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by foggykaoru | 2012-10-17 22:33 | バベルの塔 | Trackback | Comments(8)

訳したの誰だ?

ポルトガルのエヴォラの街角で見つけた立て看板。

c0025724_9552317.jpg



サービスアウト。


メインサイトにて「ポルトガル・ぽかぽか紀行」更新中。
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by foggykaoru | 2012-05-19 09:56 | メインサイトのボツ写真 | Trackback | Comments(4)

日本語の「呼びかけ」について(超長文)

『秘密の心臓』では、主人公の少年が虎(の幻)を見る場面があります。
興奮した彼は「虎よ! 虎よ! 虎よ!」と(心の中で)叫ぶのですが、物語に入り込めずにぼーっと読み飛ばしていた私は、「ん? この台詞を喋ってるのは女の子だったっけ?」と慌てて数ページ前から読み直しました。
そして、主人公が少年であり、この台詞が虎に対する呼びかけだということを確認したとき、思ったのです。

現代のティーンエイジャーの男の子が「虎よ!」なんて言うはずないじゃん!!
 
だからって「虎! 虎! 虎!」じゃ、暗号になっちゃうけどさ(苦笑)
(何言っているかわからない方は「トラトラトラ」で検索してみてください。)

この台詞、原文に当たってみてはいないのですが、たぶん「Tiger! Tiger! Tiger!」なんでしょう。
もしかして、「It's a tiger」の省略形であるという可能性も捨てきれない?
だったら「虎だ!」という訳になるかも?
それともその場合は「A tiger!」になるのか?
以上、私の単なる思いつきです。
どうか英語に関しては突っ込まないでくださいね。
原文に当たって教えてくださるのは大歓迎ですけど。



で、今回のポストのテーマは「日本語における呼びかけ」です。

日本語の日常会話では、「太郎」に呼びかける場合、「太郎よ」とは言わない。あくまでも日常会話では。

普通はこう言う。
1)太郎、どこにいるの?
つまり、固有名詞は単独で呼びかけに用いることができる。 =太郎、(あなたは)どこにいるの?=Taro, where are you?
でも「太郎はどこにいるの?(=Where is Taro?)」の省略文である可能性もある。
(現実の会話において、呼びかけなのかどうかは、イントネーションや間合いの違い、そして文脈から判断できる。)

でも
1a)息子、どこにいるの?
は変。つまり、普通名詞そのものを呼びかけに使うのは変。
英語なら「Where are you, my son?」とか言うはずだが、日本語の場合は、「あなたの息子はどこにいるの?」という文の省略文ということになる。
(かなりタメ口ですが。)

1b)犬、どこにいるの?
も呼びかけではなく、「あなたの犬(or話題になっているその犬)はどこにいるの?」の省略文である。
(英語で「Where are you, dog(またはmy dog)?」と言えるのかどうか、どうぞ教えてください。)

2)太郎さん(orくんorちゃん)、どこにいるの?
は太郎に対する呼びかけである可能性がある。
が、「あなたの息子(たぶんね)である太郎さんはどこにいるの?」の省略文である可能性もある。

2a)息子さん、どこにいるの? 
は明らかに呼びかけではない。
「あなたの息子さんはどこにいるの?」の省略文。

一方、
2b)犬さん、どこにいるの?
は、普通の状況ではありえない。



中間的結論:
日本語の通常の会話において、普通名詞を呼びかけに用いることはない。
呼びかけに用いることができるのは固有名詞のみ。

ただし、普通名詞が固有名詞化された場合は呼びかけに用いることができる。
その例は、映画「ツレがうつになりまして。」の「ツレ」です。
宮崎あおい演じる主人公は自分の夫を「ツレ(=連れ)」と呼び、「ツレ! どこにいるの?(=Tsure, where are you?)」のように呼びかけます。



そういう特殊な場合を除いて・・・
「皆さん!」みたい呼びかけもあるし、「社長!」とかは日本語の得意技だけど、それもおいといて(苦笑)、、、
普通名詞をどうしても呼びかけに用いたい場合は、「よ」を付けることになる。

しかし
3)太郎よ、どこにいるの?
はもちろん
3a)息子よ、どこにいるの?
3b)犬よ、どこにいるの?
も不自然。
なぜなら、「よ」が付いたとたん、日常会話のレベルを逸脱してしまうから。
(だから「虎よ」は現代のティーンエイジャーの台詞としてはふさわしくない)

「~よ」に合うのは多少固い言葉遣いである。
よって、
4a)息子よ、お前はどこにいるのか?
は言える。
4b)犬よ、お前はどこにいるのか?
も言える。たぶん。

4b' )天の遣わした奇跡の白犬よ、お前はどこにいるのか?
なら完璧。
「~よ」は大仰なほうが座りがいい。

とにかく「どこにいるの?」という女性的な言葉遣いは「~よ」には全く合わない。

でも、男性的な言葉遣いすればなんとかギリギリいけるかも。
5a)息子よ、どこにいるんだ?
5b)犬よ、どこにいるんだ?

これ以上続けると、かえって泥沼になりそうだから

今日の結論:
『秘密の心臓』の「虎よ!」という翻訳に文句をつけるのは簡単だけど、もっと良い訳を提案するのは難しい。
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by foggykaoru | 2012-03-29 19:30 | バベルの塔 | Trackback | Comments(16)

日本人の知らない日本語2

超ベストセラーの第二弾。

たとえば、「スッパ抜く」の「スッパ」の語源なども、もちろん面白いのだけれど、こういうのは好奇心の強い人だったら、(変な言い方だけど)「自力で疑問を抱く」ことも可能だろう。

その意味で、「やってみよう!日本語テスト」が面白かった。
問題: 上司に「~しようと思うんだが、いいかな」ときかれたときの正しい答え方を選べ。
正解は「わかりました」
「目上の人が許可を求める表現を使ったときは、その真意は別のところにあることが多いので、注意が必要だ」という解説に唸ってしまった。
言語というのはその構造だけでなく、「言語運用」が大切。
それは日本語の世界にどっぷりつかった日本人にはなかなか感知されにくい。


いちばんすごかったのはチェコの日本語教科書。
「AしてBする」の文型の例文: おじさんはあさしん聞をよんで、午後おどりました。
せめて「おじさん」を「おねえさん」に変えればいいのに。

そういえば、「テュリャテュリャテュリャ」という「一週間」はチェコの民謡?
と思って検索したら、残念、ロシア民謡でした。

日曜日に 市場(いちば)へでかけ
糸と麻(あさ)を 買ってきた

月曜日に おふろをたいて
火曜日は おふろにはいり

水曜日に ともだちが来て
木曜日は 送っていった

金曜日は 糸まきもせず
土曜日は おしゃべりばかり



教科書と言えば、日本の英語の教科書は「This is a book」とか「This is a pen」から始まるのがいかん、そんな文は日常会話では使わないから、「I am なんたら」とか、実際に使う表現から教えろ、と主張する人がいる。
でも、「This is a pen」が実際に使われることもある。だって実際に聞いたもん。映画の中で。あんときにはほんとに感動しました。
・・・脱線しすぎ。


その他に面白かったのは
「鬼がなぜ虎のパンツをはいているのか」
「半濁音を表すのに、なぜ○を付けるようになったのか」

フランス語にはotakuという単語が入っているし、日本のマンガを原文で読めるようになりたくて日本語を学ぶ外国人が少なからずいる。自国の文化発信を促進するのは、国にとって大きな戦略なのだ。私はその昔、フレンチ・ポップスにあこがれたのだから。日本の政治家はもっとマンガやアニメを大切にしなくちゃいけない。変に規制したら現在の我が国の最大の輸出品目が死にますよ。
しかも先頭切って規制しようとしてるのが「太陽の季節」書いた人ときてる。なんたる不条理。
・・・またまた脱線しつれい。


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by foggykaoru | 2010-03-18 21:13 | バベルの塔 | Trackback(2) | Comments(10)

日本語が亡びるとき--英語の世紀の中で

水村美苗著。超有名なベストセラー。
私がベストセラーを、売れているうちに読むというのはめったにないこと(苦笑)

これもけっこう前、10日ぐらい前?に読んだのです。
ポストが遅くなったのは、忙しがっていたということもあるけれど、それ以上に私にとってはイタいことが含まれているから、書きにくかったということもあります。
読む前から、というより、副題を見たときから、予想はついていたんですけれどね。

読み応えがあります。特に後半の日本近代文学史あたりからは怒涛の勢い。筆者の熱い思いが伝わってきて、読み終わったときは「ふう」と息をついてしまいました。

筆者はアメリカ育ちのいわゆる帰国子女だけれど、アメリカ生活になじめなかったうえに、大学ではフランス文学を専攻している。日本でこういう本を書く人の多くは、日本語しかやっていない人、または英語メインの仕事をしている人(しかも英語LOVE!)なのだけれど、筆者はそうではない。英語をつきはなして見ることができて、もうひとつの外国語であるフランス語を理解と憐憫をこめて語ることができて、そしてもちろん日本人として日本語を心から愛している。この本が言語関連本とは一味違うものになった最大の要因はそこにある。

私はあまり日本文学を読んでいるわけではないのだけれど、漱石の「三四郎」は好きなんです。明治のインテリたちのにおいが好き。しかも主人公がインテリの「卵」である三四郎だから、とてもわかりやすい。ちょうど「長い冬休み」のドロシアのごとく。(限られた人にしかわからない比喩だ。)なおかつ三四郎は「天然キャラ」。笑えます。(これもドロシアに通じるところがある?) 今回、水村さんの解説を読んで、改めてフムフムと思うこと多かったです。(ランサムの言及があるわけではありません。あしからず)
二葉亭四迷の「浮雲」も読んでみたくなりました。

いろいろなことが濃く語られているこの本、最終的な結論は「学校でしっかりと読む国語教育をせよ。せっかく素晴らしい日本文学があるのだから、もっと触れさせよ」ということです。
「書く」だけではダメである、多少難しくてもちゃんと読ませろ、と。

そうですよね。
自分が書ける範囲内の文章にしか接していなかったら、向上はないのです。
頑張って読んでいるうちに、書くレベルだってそこそこ上がってくる。
(書かせなくていいというわけではないですが)

ウェブサイトを開設して早10年、自分が書いた文章を正しく理解してもらうことの難しさをしょっちゅう感じてきました。
もちろん、私の書き方が悪いところもある。
でも、いくらわかりやすく書いても、わかってもらえないこともあるらしいということも、感じています。
他の方の掲示板やブログで、的外れなコメントを目にすると、他人事とは思えません。コメントを残す人はごく一部です。つまり、同程度にわかってない人の数はその何十倍にものぼる。そう思うと愕然とします。
的外れなコメントに落ち込んだ経験のあるサイト主さんやブロガーさんたちになりかわって、ここで断言します。
読解力がない奴には何をどう書いても通じない。
(↑これは傲慢、不遜、問題発言です。でも、このブログでコメントしてくださるのは私以上に読解力がある方たちばかりなので、真意をわかってくださるだろうと信じています)

そう、これは文学作品に限ったことではないのです。
旧約聖書によると、神は傲慢な人間を罰するために、もともとひとつだけだった言語を、たくさんの言語にしてしまい、お互いに通じなくなるようにした、ということですが、たとえ言語がひとつしかなくても、人間は通じあわないのですよ。同じ言語を話していると、通じあっているという幻想を抱いてしまうのが厄介なところなのです。
通じる部分を多くするには、みんなして母語の力をつけるべく、努力していかなくてはならない。
国語の時間を減らして英語を増やすなんて、愚の骨頂です。
日本語で語れないことは、外国語でも語れないのです。
「外国人に道を聞かれたときに英語で答えられるように、小さいうちから英語を教えよう」ですって? やめてちょうだい。
子供は日本語でも道案内なんかしたことないんだから。中学で始めれば十分。
第一、日本に来たら日本語で道きくのが礼儀でしょ。もっと外国人に日本語を教えろよ・・・って、どんどん脱線してきりがなくなるのでこのへんでおしまいにします。

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by foggykaoru | 2009-07-23 21:13 | バベルの塔 | Trackback | Comments(10)

国立国語研究所その後

国立国語研究所(通称「国研」)が危ない!ということで急遽なされた署名運動。
結果がどうなったのか、気になっていました。
こちらをご覧ください。

いつも党利党略とか政争の報道ばかりでうんざりさせられているけれど、ちゃんとしたことをしてくれる議員さんたちもいたんですね。
あなたたちのおかげで、久しぶりに「まだ日本は完全に終わったわけではない」と思うことができました。
どうもありがとう。
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by foggykaoru | 2009-07-09 23:22 | バベルの塔 | Trackback | Comments(2)

日本人の知らない日本語

この本に関する情報はこちら

著者は日本語教師養成講座の先生で海野凪子という人。
マンガ仕立ての本。こういうのを昨今は「コミックエッセイ」と呼ぶらしい。(で、正確には「著者」ではなく、「原案提供者」ということらしい。)

友人が「おもしろいよ」と貸してくれたのだけれど、ほんとにおもしろい。
これはどなたにもお勧め。

ただ日本人が日本で日本人相手に使っているだけでは、日本語の真の姿は見えてこない。
己を知るうえで、他者の存在というのは欠かせないものなのよ。

そして、私は外国語を勉強している日本人。
日本語を勉強する外国人の中に、自分の姿が透けて見えるような気がした。
古臭い教科書で習い覚えた日本語を話す外国人とか。
それはまさしく私だ!(自爆)

ところで、目上の人に「頑張ってください」を使ってはいけないのですよね。
ではそのかわりに何と言うべきか。

みなさんはご存知ですか?

答えはこちら
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by foggykaoru | 2009-06-24 21:04 | バベルの塔 | Trackback | Comments(10)

日本語と国語

前のポストに対する反応をいろいろなところで目にして、とても嬉しく思っています。
ただ、もしかして誤解を招いているかもとも思ったので、説明を加えます。

何に対する誤解かというと、「日本語教育」という用語に関する誤解。

今回問題になっているのは、国立国語研究所内の「日本語教育研究部門」が事実上廃止されるかもしれないということです。
国語教育研究部門」ではない。

国語教育研究部門が廃止されるのだったら、全国の中学・高校の国語教師が黙っちゃいないだろうし、一般人ももっと激しく反応するだろう(と私は思います)。

問題になっているのが日本語教育だから、一般人が気づかないうちに廃止されてしまいそうになっているのです。

日本語教育というのは、「日本語」という言語を、外国人(もっと正確に言うと「日本語ネイティブでない人たち」)に教えることです。

この分野は日本では長いことないがしろにされてきています。

たとえば、中学で私たちが習う「国文法」。
あれは実に不思議な存在です。

大学の恩師が言っていました。
「フランス人がフランス語の文法をたたきこまれるのは、文法を知らないと、正しいフランス語の読み書きができるようにならないからだ。でも我々日本人は、国文法なんか知らなくても日本語の読み書きはできる。国文法の存在理由というのはいったい何なのだろうねえ」

彼は問いかけただけで、答えまでは言ってくれませんでしたが、今、私はこう思っています。

第一に、(国文法なんか知らなくても不都合は生じないけれど)中学ぐらいのときに、いちばん身近な言語である日本語にも文法があるということを意識させるのは、別に悪いことではない。
第二に(たぶんこっちに重きが置かれていると思うのですが)、高校で古語文法を学ぶ前に、口語文法で慣れておくといいのではないか。

で、あの国文法は、日本語という言語を外国人に教えるための文法としてはほとんど役に立たない。
日本語教師は、もっとたやすく外国人が日本語を身につけられるような独自の文法、つまり日本語文法を編み出していった。
一般の日本人が知らない間に、試行錯誤しながら。
で、それがどんなものなのかは、今も知られていない。私も知らない(苦笑)

その知られざる歴史、つまり日本語教師たちが実地の中から生み出し、こつこつと積み重ねてきたデータ(文法の教え方はそのごく一部に過ぎません)があるのが、国立国語研究所の日本語教育研究部門だということです。

で、私は昔から思っているんですが、「国立国語研究所」という名称は変えたほうがいいですよ。
国語」という名称は内向きすぎます。
世界の中の「日本語」の研究所であるということを、明確に打ち出すべきだ。
と思っていたんですが、事態はそれどころじゃなくなっていた!という話なのでした。
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by foggykaoru | 2009-03-02 20:57 | バベルの塔 | Trackback | Comments(10)