人気ブログランキング |

「バロン・サツマ」と呼ばれた男

副題は「薩摩治郎八とその時代」
藤原書店刊。
村上紀史郎著。この人の本は初めてなので、果たして面白いのだろうかとおっかなびっくり読み始めたのだが、だんだん調子が良くなって最後は一気だった。

パリ市の南端にはパリ大学都市というものがある。広大な敷地の中に各国が作った学生寮が立ち並んでいるのだが、日本館の別名は「メゾン・ド・サツマ」。薩摩家の資金で作られたのである。そのあたりの事情はこの本を読んで初めて知ったのだが、日本の外務省は「他のところに作っていないのに、パリだけに作るわけにはいかない」と断ったのだそうだ。そんなことを言っていたら、永遠に、どこにも、何も作れないじゃないか!

この日本館のこけら落としが1929年。このときの超豪華なレセプションを取り仕切り、フランス人の度肝を抜いたバロン・サツマこと薩摩治郎八の評伝である。当時28歳の若造。

1901年、綿織物で財をなした薩摩商店の三代目として生まれ、19歳でオックスフォード留学のために渡英するが、あまり熱心に勉強した形跡はなく、数年後にはパリに移る。イギリスよりも、パリのほうが楽しかったのだろう。イギリスは寒くて暗いものね。

現在の貨幣価値に換算すると、毎月数百万円の仕送りを受けていたというのだから、昨今の「格差社会」なんて「へ」でもないと思ってしまう。(あらお下品)「花の1920年代のヨーロッパで遊び呆けた大富豪の跡取り」という点では、最近読んだ「ネヴァーランドの女王」にぴったりかぶるのだが、その後の生き方の「格」が違う。若き日のバロン・サツマも決して品行方正だったわけではないけれど、当時の「紳士」の枠内にはおさまっていたようだし、なにより付き合う人が超一流。それを通して「単なる大金持ちの放蕩息子」から次第に変化していく。

モーリス・ラヴェルをはじめとするフランスの音楽家たちと、当時始まったばかりのラジオ放送をきいていた折り、流れてくる音楽がシューベルトの「未完成」であることがわかったのが薩摩ひとりだったので、みんなが感心したというエピソードがある。生で聴く機会が多い人とか、よほど音楽を聴いている人でないと、新しい曲はわからなかった。そのぐらい音楽の流通が未発達だったというあかしでもある。

ときおり日本に帰国することもあったが、20代から50代まで、実質的にフランスに行きっきり。ナチス支配下のフランスも経験する。(戦中もフランスに残った日本人は彼を含めて10人もいない。)このころには薩摩商店はとっくになくなってしまったのだが、財産の売り食いで贅沢な暮らしを続けられたというのだからすごい。

幅広い人脈を生かし、戦時下はナチスからフランス人の知己を救ったり、戦後は大戦下にフランスに残った日本人の名誉回復のために力を尽くした。「彼らは自由独立の人道的仏蘭西精神に信頼してこそ、各自の運命を仏蘭西に委ねたのである」と主張して。そう言われたらフランス人だって悪い気はしないよね。

晩年は日本に戻り、フランス関係の原稿を書いたりして、つつましく暮らしたそうだけれど、美輪明宏は「本当の豊かさを知る紳士で、その本領は無一文になってから発揮された」と評している。

彼が生涯に使ったお金は総額150億円。そのうちの多くは「無駄金」だったかもしれないが、たぶん、お金というのは湯水のごとく使ってこそ、真の「生き金」が生まれるのではないだろうか。(その人にセンスがあれば、結果的に生き金になる。)とにかく「あっぱれ」と言うしかない。こんな日本人は今後二度と現れないだろう。

日本館には、パリの大学院に留学していた友人が住んでいたとき、訪れたことがあるのだが、「ふーん、これが有名なメゾン・ド・サツマなのね」と思った程度。日本的な外観はすでに写真で見知っていたけれど、内部の作りも妙にちんまりしていて日本的だと思ったものである。もしも再訪する機会があったら、新たな感慨を抱くことだろう。日本館関係者が戦時中に必死に守ったという藤田嗣治の絵を、今度こそ、しかと確認しなくちゃ。


この本に関する情報はこちら

by foggykaoru | 2010-03-28 08:33 | 伝記・評伝

<< モリエール 恋こそ喜劇[追記あり] NINE観ました >>