『ショパンとパリ』を読んでコンセルヴァトワールに思いをはせる
2010年 07月 03日
前に読んだ写真中心のショパン関連本よりも、当然のことながらずっと読み応えがあった。
彼がオペラに手を染めなかったのは、オペラは何年がかりの大仕事になってしまうが、ピアノだったら(彼の才能をもってすれば)はるかに手っ取り早く成功できたから。ピアノの技術革新があったのも大きい。要するに、彼が表現したいことはピアノだけで表現できたということなのだろう。
そして、彼が手本にしたのはモーツアルト。そしてバッハ。後期の作品はバッハとか対位法とか、いろいろ考えて作られているそうだ。のだめが言っていたとおり。(ちなみに、彼によるとベートーベンは不可!だったそうだ。)
著者である河合貞子氏は美学が専門で、ショパンよりもドラクロワのことを夢中になって語っている部分があって、「あれれれ」と思ったりした。
ドラクロワはショパンと交流があった(なにしろショパンの肖像画も描いてる)し、当時の美術潮流と音楽の関わりは、なるほどというところがあるから、まあいいか、という感じ。
一番興味を惹かれたのは、ショパンがパリで活躍した時代。
高校の世界史では「革命→ナポレオン帝政→王政復古」と習って「おしまい」。
でも、そこから先のことをもっと知りたくなって、いろいろ検索してみた。
王政復古で思いっきり逆行した歴史の針を元に戻すべく、1830年に労働者中心の7月革命が起こった。でも失敗。オルレアン公ルイ・フィリップが王位についた。
そして、ヨーロッパ中からパリに音楽家が集まる。リストやロッシーニが代表格。そしてショパン。
でもなぜこの時期に?
そして、なぜパリに?
当時、パリは先進地域だったから?
7月王政の中心は中産階級なのだそうだ。彼らが音楽の需要を喚起した。
でも、中産階級の力がもっと強かったのは、産業革命を経たイギリス、ロンドンだったはず。
実際、ファッションやら、「イギリス風」が当時はオシャレで、パリはロンドンに見習ったのだそうだ。
政治的に安定しているのも、フランスよりイギリス。
でも芸術家が集まるのはロンドンよりもパリなのだ。
なぜ?
なんでも、7月王政のフランスの特殊事情は、中産階級と結託した王侯貴族なのだそうだが、そう言われてもよくわからない。
やっぱり
ロンドンよりもパリのほうが気候がいいし、海を渡らなくてすむから?(爆)
西洋史専攻の友人にきいたら「芸術といったら、イギリスじゃなくてフランスでしょう」の一言で片づけられてしまった。
パリにコンセルヴァトワールという音楽学校(音楽だけじゃないけれど)があって、世界中から音楽家の卵が集まるということは、「のだめ」を読む前から知っていた。
でもロンドンに音楽留学する人はあんまりいないよね。。。
「なぜフランス?」というのは、前から疑問だった。
一口に「芸術」と言っても、音楽はフランスの特に得意とする分野ではない。フランスのお得意は美術のほう。
茂木さんの本にも「フランス人は、フランスの作曲家以外のクラシックにはあまり興味がない」と書いてあった。
Wikipediaによると、コンセルヴァトワールの前進はルイ14世が作った学校らしい。そう言えば、彼は演劇や芸術が大好きだった。映画「モリエール」にも登場してたっけ。
エリザベス1世はたぶんそんな学校作ってないですよね。彼女のもとで英国ルネッサンスは下火になっていったと石井美樹子さんの本に書いてあったし。あ、ルイ14世とは時代が違いすぎます?
でも英仏両国を代表する君主と言ったら、この2人ですよね・・・。
月並みですが
やっぱり
「芸術といったら、イギリスじゃなくてフランスでしょう!」
というのが結論なのでしょうか?
by foggykaoru | 2010-07-03 18:18 | 西洋史関連 | Trackback | Comments(5)

産業革命の最大の特徴は利益の大半を投資して拡大再生産し続ける事ですから(経済原論で習いますから経済学部出身者は必ず知っています)
ですから、浪費を戒める禁欲主義が英国では尊重されました
芸術で認められたのは人生訓にとんだ芝居ぐらい?
快楽的な音楽は、廃退的と見なされたのかも知れません

それで、音楽については、モーツアルトもショパンもブラームスもベートーヴェンも、ドイツやオーストリアやフランスを行き来することで栄えていた部分もあるので、寒くて海の向こうの端っこの国、というのはやはり不利だったのでしょうね。(でもメンデルスゾーンは「スコットランド」という良い曲を書きました♪)
