ピアニストになりたい!(超長文)
2010年 07月 19日
これは本の題名。副題は「19世紀もうひとつの音楽史」
著者は岡田暁生という京都大学の准教授。
非常に面白くて、あちこち確認のために再読していたら、感想文を書くのが遅くなりました。これ以上引っ張ると何も書けなくなりそうなので、未消化なところもあるけれど、とりあえず書きます。いろいろありすぎて非常に長くなりそうです。
強制されて習ったのだけれど、ピアノは私を作っている一要素なのだと思います。非常に大げさだけど。
でも、ピアノというのは楽器としてどうなんだろうと、ずっと思ってきました。
ピアノは、初めて弾く人でも、ドの音を出せと言われたら、出すことができる。
そして、下手な人の音色と、上手な人の音色の差が少ない。
私は中学時代につぶれそうなオケ部に所属して、バイオリンに触ったことがあるのですが、自分の出す音の汚さに肝をつぶしました。しかもバイオリンの場合、その音が自分の耳元に響くのです。あれはすごかった。
ピアノの場合、下手でもそこまですごくはない。
そして、ドとレの間の音としては、ドのシャープ(=レのフラット)以外は出せない。
弦楽器だったら、その楽器が出せる最低音から最高音までの間の、どんな音だって出せる。声と同じく。前からしょっちゅう書いてる気がするけれど、私は歌が好きなんです。だからいちばん好きな楽器は「声」。ピアノというのは人の声とはあまりにも違う。だからほんとうはピアノの音はあまり好きではない。
打楽器的なところも好きではない。タカタカ叩く打楽器。「のだめ」でヤドヴィが「ピアノも打楽器だ」と言ってました。ヤドウィは「打楽器こそが楽器の原点だ」とも言っていて、そうなんだろうなあとは思いますが、私は打楽器、特に好きではない。
私は音楽の3要素「メロディー」「リズム」「ハーモニー」のうち、メロディーにいちばん惹かれるような気がします。そしてメロディーをいちばん美しく奏でるのは弦楽器のような気がする。
しかも弦楽器は、左右の両手で慈しむようにして1つ1つの音を作るのです。素敵です。
だからと言って、今さら弦楽器を始めようという気にはなれません。
自分でメロディーと伴奏の両方を演奏することに慣れてしまっているので、基本的に単音しか出せない楽器を、ひとりで練習する気になれない。
「1台でオーケストラ」の代わりになれるピアノに「毒されてしまった」とも言えるのかも。
最初から大脱線大会になってしまいました。ここからが本題です。
この本を読んで、ピアノが「近代」を象徴する楽器なのだということがよくわかりました。もっと詳しく言うと「ヨーロッパが世界を主導した近代」。そして、その近代は直接的に現代につながっている。
以前読んだ本に「西洋の楽器は規格がしっかりしていて、いわゆるグローバリゼーションに向いている」みたいなことが書いてありました。確か、邦楽の楽器との比較で書かれていたはず。
そしてこの本では、楽器もさることながら、ヨーロッパの近代が生み出したものとして、「教育」があげられています。マニュアルに基づく教育。「こうすれば誰でも○○できるようになる」という。この思想こそが、まさに近代。われわれはその延長線上の世界にどっぷりつかっているのです。
ピアニスト養成のために考案された道具の数々は、まるで「巨人の星」の「大リーガー養成ギブス」みたいで笑えます。指の訓練のための教則本もすごい。「右手の人差指から小指までの4本が「レミファソ」を押さえ続けて、親指だけを動かす」など、まともな音楽性の持ち主には耐えられない練習です。(レミファソを一緒に押さえたら、不愉快きわまりない和音になる)
最近、ある人に「世界にはいろいろな音楽があるのに、西洋音楽が席巻している日本の状況はおかしい。『のだめ』はそれを助長する作品である。これからはもっと他の音楽にも目(耳?)を向けるべきである」と言われました。
それはとってもよくわかるんです。
でも、私個人としては、もう骨の髄まで西洋音楽に毒されてしまっていて、今さら変えようがない。
自分が弾いて楽しむのは、どうしたってピアノになってしまう。
退職したら声楽習おうかなとちらっと思っているのですが、絶対に小唄・長唄の方向にはいかない。
日本の音楽好きの大多数が私みたいなタイプだと思います。確かに変なんですよね。
そのぐらい、「ヨーロッパの近代」に毒されている。それが私。
ネットを始めて自分以外のランサム・ファンの存在を知り、ランサムの世界に戻ってからというもの、子どもの頃読んだ本を再読するということは、私にとっては一種の「自己再発見」の旅であると言えます。
そして「のだめ」がきっかけでピアノを再開した今、この本は音楽という方向からの「自己再認識」を一歩進めてくれました。
備忘録:
パリは音楽に限らず、19世紀を通して、あらゆる流行の一大中心地だった。
オペラやオーケストラの振興は当時のヨーロッパにおいて、国家事業だった。
そのために、ヨーロッパ各国は「音楽院」を作った。ウィーンとか、プラハとか。(イギリスに関しては記述無し。作らなかった?)
パリのコンセルヴァトワールはヨーロッパ最古の音楽院。オペラの上演のために必要な音楽家を養成するための学校だった。
当初はピアノ科は無かった。
伴奏ピアノ科のほうが先に作られた。今でもコンセルヴァトワールの伴奏ピアノ科には優秀な学生が多い。(←フランクのことでしょうか?)
ロギールという人が発明した「指訓練機」に関して、ある人いわく「民衆の音楽教養が最低のレベルにあり、ジェントルマンの教育からも音楽が排除されているイギリスにおいて、これが発明されたのもよくわかる」
この著者の他の本も読んでみたいです。
この本に関する情報はこちら
by foggykaoru | 2010-07-19 00:50 | 西洋史関連 | Trackback(1) | Comments(4)


音楽にかかわらず全ての事を口伝や相伝なあいまいなものを排して体系化し科学的に「学問」としたのもヨーロッパですね
そのおかげで中世にはアラブ諸国よりはるかに見劣りしていた科学技術が近代に入って大躍進しましたが…

西洋音楽であっても、音楽は音楽だから、それによって感覚が鍛えられている面はあるんだろうと思います。
だから、もしも邦楽とかどこかのエスニック音楽をやったら、全く音楽をやっていない人よりは、進歩が速いのかもしれません。
でもいつまでたっても、どこか西洋音楽臭さが消えないのかもしれない。。。