あなたを抱きしめる日まで
2014年 04月 05日
今をさかのぼること50数年前のアイルランド。
未婚なのに子供をみごもってしまった「ふしだらな娘」フィロミナが保護を求めるところは修道院以外になかった。我が子に関する一切の権利を放棄した契約書にサインするしかなかった。
しかし、生き別れた子供のことを忘れる日はなかった。
なんとかして会いたい。
そんな彼女に、ひょんなことで関わりを持ったのがマーティン。政治ジャーナリストだったけれど、今は失業中。とりあえず食っていくために、一度は「くだらない」と切り捨てたネタを追うことになる・・・
主人公の老女フィロミナを演じているのはジュディ・デンチ。彼女を観に行ったんですが、これが期待どおりの名演。彼女なくして成立しない映画です。
フィロミナは教養の無い庶民の女性。修道院での過酷な体験にも関わらず、いまだに敬虔なカトリック信者。
一方のマーティンはインテリです。もちろん宗教には懐疑的。
なかなか面白い映画です。
普通にロードムービーとして観ても、たぶんかなり楽しめます。「子に対する母の愛」は世界共通だし。
でも実は敷居が高い映画です。
たとえば、「そうそう、レーガンはアイルランド系だもんね」とか思いつく人のほうが楽しめる。
そしてさらに、最終的に、宗教的なテーマに入り込んでいくのです。
とても深い。海のように深い。
「ぴあ映画生活」のレビューを一読したけれど、そこのところを正しく指摘したレビューは非常に少ない。
「アンチ宗教」的なエンディングだけど、そのわりには中途半端だなと不満を覚える人が少なくないかもしれないけれど、そうではないのです。この映画は全然アンチじゃない。
修道院は子供を売って収入を得ていた。(ほんもののマーティンの記事にはっきり書いてあります。一修道院の勝手な行為ではなくて、教会の方針に従っていたのです。)
でもこの映画では、その点をあまり突っ込んでいません。
あくまでも「近所の噂」。
ここですでに「アンチ・キリスト教」な映画ではない。
修道院長は修道女の出世頭。聖書の教えを守り続けた優等生。
彼女は自分の信念のもとに、親子の対面のチャンスをつぶす。
マーティンは彼女を赦さない。
フィロミナは赦す。悲しみのどん底に突き落とされたにもかかわらず。・・・ではなくて、どん底に突き落とされたからこそ、赦すことができた、ということなのだと思います。
そのとき、彼女に「神」が宿ったのです。
「神」が選んだのは、教えを守り続けてきた修道院長ではなくて、罪を犯し、自らの罪を悔い、人生の辛酸をなめてきた(けれども、相変わらずけっこう軽薄な)フィロミナのほう。
そう、この映画は「神」の存在を描いている。
「教会」とか「修道院」は人間が作った組織にすぎない。
(もっと言えば、聖書だって、イエスの教えを弟子たちがまとめたもの。彼自身が書いたわけじゃない。)
「神」とは別物なのです。
意地悪な見方をすれば、これは「安心な良心作」です。
もしももともとの記事に近いスタンスで作っていたら、「問題作」になっていたことでしょう。
でも、問題作だったら、しみじみ感動することはできなかっただろうと思います。
by foggykaoru | 2014-04-05 19:14 | 観もの・聞きもの | Trackback | Comments(4)

不幸に不幸を重ねても、「神の祝福」を受ければ救われて、それを映画の中の人も、観客も納得してしまうのは丸っきり理解出来ませんでした。
キリスト教が社会に根付いているのと信仰の深さには思い巡らしましたが。
その映画は観ていないので、何とも言えませんが、たぶんこの映画のほうがまだわかりやすいかもしれませんね。
述べているレビューは少なかったです。
カトリックの修道女にはよくあるタイプの修道女。
こういう人に何をいっても無駄なような気がします。
正しい事をしていると信じでいる人は
悪い事をしていると認識している人間よりも
罪深い。
>正しい事をしていると信じでいる人は
悪い事をしていると認識している人間よりも
罪深い。
おっしゃるとおりです。
たとえ悪人であっても、自分が悪いのだということに気づいていればまだ救いがある。
気づいていない人は始末に負えない。