「フランス中世歴史散歩」
2006年 04月 18日
人名・地名が容赦なく出てくるので、フランス史の入門段階を終えた人向き。
「この地方で最も美しいステンドグラスがある教会はどこそこ」といった記述が多いので、フランスのマニアックな旅のネタ本としてかなり役に立ちそう。
ただし、ちょっと読みづらいところがある。翻訳に難があるような気がしないでもない。ただし、あとがきによると、これは抄訳なのだそうで、読みづらい原因はそのあたりにもあるのかも。
以下は純粋に自分のための備忘録。
・中世の国王というのは、定住の地を持たなかったという話
中央集権化して初めて、国王は自分の宮殿で落ちついていられるようになったのであり、それまでの数百年間、家来や召使いをぞろぞろひきつれて、自ら諸侯のもとをまわっていたのだと。いやーご苦労様。
・パリ大学発祥のこぼれ話
当時の学生の共通語がラテン語だった。だから、ソルボンヌ界隈を「Quartier latin カルティエ・ラタン(=ラテン地区)」という。ここまでは知っていた。が、学生たちは郷里を同じくする仲間と仲良くなり、4つのグループができあがった、というあたりは初耳。しかも、その4つのグループというのが、フランス、ノルマンディー、ピカルディー、そしてイギリス。
フランスというのは、おそらく、パリ近郊のイル・ド・フランス地方のことだろう。
ノルマンディーとピカルディーというのは北フランスの地方なのだが、そこにイギリスが加わっているというのが、私にはツボだった。中世においては、やっぱりフランス北部とイギリス南部が一つの文化圏だったんだなあ。
さらに、学生たちの多くは貧乏暮らしで、下手をすればホームレス状態?だった。それを目撃したイギリスのお金持ちが「コレージュcollege」という寄宿学校を作った。
(英仏の大学の歴史が気になって、少し調べてみました。詳細はこちら)
・フランス語の「チーズ」の語源
「形作る」という意味のformerの名詞形なので、ほんとうは「formageフォルマージュ」だったが、その後「fromageフロマージュ」になった。
・・・だからイタリア語の「チーズ」は「formaggioフォルマッジョ」だったんだ!!
・中世フランス・イギリス史のヒロイン、アリエノール・ダキテーヌに関して
彼女ゆかりの文化財が多いのは、アキテーヌ地方の中心地であるボルドー周辺ではなく、むしろポワトゥー地方なのだそうだ。
・ブルターニュのアーサーの悲劇
アリエノールの有名な息子はリチャード獅子心王とジョン欠地王。ジョンは四男。三男だったジェフリーはブルターニュ地方をもらった。彼の死後はその子アーサーがブルターニュを引き継いだ。リチャード獅子心王の死後、イギリス国王になる資格はアーサーにもあったわけだが、イギリス人はフランス育ちのアーサーでなく、オバカで性格の悪いジョンを選んでしまう。そして、アーサーはジョンの手にかかって死ぬ。
この本に関する情報はこちら
by foggykaoru | 2006-04-18 20:34 | 西洋史関連 | Trackback | Comments(9)


へええ、英国のこの2つの大学も相当古くからあるんだろうと思いますが、パリのコレッジはいつごろできたのですか?
諸大名に参勤交代させていた徳川将軍とはえらい違いですよね!
ごめん・・・。今ちゃんと読み直しました。
パリの大学の起源はよくわからないみたい。なんとなく学生が集まって学校ができていたけれど、最初のコレージュが1180年で、いわゆるソルボンヌ「大学」ができたのはもっと後ですって。オックスフォードはもうできてたのね。。。
早速訂正します。
でも、だったらなぜイギリス出身者がパリにたくさん来てたのかしら?

へええええええ。
Oxford大学のサイトによると、「大学の正確な創立年は定かではないが、1096年頃からその地で学ぶ人がいた。1167年にヘンリー二世によって、英国の学生がパリ大学で学ぶことを禁じてから、急速に発展した」とあります。なんでパリ大学が禁じられたのでしょうね。
また、私の英和辞典の付録の年表には、「1160年代、パリ大学の教師・学生の一部が移住してOxford大学の基礎が固まる」とあります。今はこれ以上(ケンブリッジのほうも)調べる余裕がないのですが、なんだか面白そうな事情。。
確か、昔のヨーロッパでは、ギリシア・ローマ時代の終了後は、学問の中心はパリ、という空気があったのではなかったかと思います。根拠を思い出せないけど。英国は、端っこの島国で、アメリカ大陸が発見されて7つの海を制覇するまでは、ちょっと田舎な位置づけだった、のですよね。
小学校のときに使った「ジャポニカ学習ノート」には、いろんなトリビア知識が掲載されてました。
そのひとつが「世界の大学」でした。
私の記憶が正しければ(たぶん正しくないですが 爆)
1 ボローニャ大学
2 ソルボンヌ大学
3 オックスフォード
の順番だったと思います。
なので、「大きくなったら、ボローニャ大学にいくの!」と思ったことも告白しておきます(爆)
大学=神学メイン、哲学は神学のそえもの、が大学発祥の頃ですから、アビニョンに教皇庁が移転させられてしまったころから、パリの大学のほうが学問のメッカ(へんですよね、この言い方・・・)になったのでしょうか?
と、考えてみましたが、正解はいかがでしょう?かおるさん?
いえいえ、いい加減な読み方をしていたのがわかってありがたかったです。
ヘンリー2世の妃はフランス王妃だったエレアノール(アリエノール)ですよね。非常に興味深いです。
>英国は、端っこの島国で、アメリカ大陸が発見されて7つの海を制覇するまでは、ちょっと田舎な位置づけだった、のですよね。
ちょっと田舎だったのは、もっとずっと後までじゃないかしら。高階さんの「世紀末の美神たち」という本を読むと、文化発信地としては19世紀末まではパリのほうが上だったような感じがします。
小学生の頃からそういう知識を蓄えていらしたとは・・・。
さすがcrannさん!
そうそう、ボローニャ大学はヨーロッパ最古の大学でしたっけ。
>正解はいかがでしょう?かおるさん?
えっ? えっ? そんな難しい突っ込みしないでくださいよ~

こんにちは。
うわー、ジャポニカ学習帳でそんなことも載っていたのか・・・
私、あのノートで覚えたのは、花の名前をたくさんと(表紙と裏表紙が花の図鑑状態だったので)、「石橋をたたいてわたる」などことわざをいくつか。確かさんすうのノートは魚の写真だったような。
(授業中にけっこう読んじゃうんですよね)