「海へ出るつもりじゃなかった」(1999年)

2月中に読了する予定だったのが、遅れに遅れました。
今回の感想の前に、1999年に再読したときの感想文をご紹介します。
(1999年というのは、ネットを始めたことがきっかけで、自分以外のランサム・ファンの存在を知った年。そして、自分がまだランサムを読んで楽しめる心を持ち合わせているのかどうかを確認するために、全巻再読にとりかかり、感想文をメインサイトに順次アップしていったのです。)






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ついにここまで来た。大好きだった第7巻に。今回も1度読んだあと、さらに間を置かずに2回、3回と読み返した。それも飛ばし読みでなく。全巻読みなおしていないうちに決めつけてしまってはいけないかもしれないが、やっぱり今もこの作品が1番好きなのだと思う。
ジョンは、またにこっと笑い、ココアの最初の一口で口にやけどをし、バタつきパンとタンをかんでやけどを冷やし、かじに注意を向けた。

わけもなく好きだったこの場面。再び目にしたときは、旧友にめぐりあったような気がした。そして「ランサムの良さはこういうディテールに手を抜かないところにあるのだ」と偉そうに理屈をつける今の私がいる。

それはそれとして、まずは冒頭。ウォーカーきょうだいがボートをこいでいるところからわくわくしてくる。ごく自然に「鬼号」が登場する。いい流れだ。

実はこの「鬼号」という名前すら、4ヶ月前にランサム・サイトに出会うまで、すっかり忘れてしまっていた。ましてやジム・ブラディングなど、今の今まで忘れていた。いい青年だなあ。例によっていいとこの坊ちゃん。ラグビー校からオックスフォードに進学ときてる。でも単独で夜間航海をするたくましさを兼ね備えている。理想的!

なぜジムが帰れなくなったのかということも、ウォーカーきょうだいが父親とどのようにして出会ったのかということも、すっかり忘れていた。

何回も読み返したはずのこの作品だが、いつも最初から読んでいたわけではなく、自分の好きな場面ばかりを繰り返し読んでいたのだろう。

私のお気に入りは、鬼号が海上で濃霧と暴風雨の中で悪戦苦闘する場面だった。引き返すべきか、このまま走りつづけるべきか、年長の二人は対立する。「おかあさんとの約束」を最優先するスーザンと「安全」を第一に考えるジョン。「お約束」のことはあまり眼中になかった子供時代の私だが、それでも二人の抱える不安と葛藤は十分に感じとることができた。

スーザンが顔を上げた。ジョンが見たものは、雨と涙にぬれ、目の上にべったりと髪の毛がはりついた、まっさおな、しみのうき出た顔だった。とてもスーザンの顔とは思えなかった。

なんてかわいそうなスーザン。でも、いつも落ち着きはらってお茶を入れているスーザンが、これほどに身近な存在に思えることがあっただろうか。これは一種の感動である。昔の私もそういう感動のしかたをしていたのだと確信する。 そうかと思えば、ティティとロジャが出てきたとたん、心の奥底でちょっぴり冒険を楽しんでいるお気楽年少組に私はころりと立場を変えるのだった。

以前バラしたように、帆走の経験のない私は、ヨットに対してはそれほど思い入れを持っていない。それでもこの鬼号の北海横断は飽きもせず何回も繰り返し読んだのだった。引き返そうとしたときの「さか波」の激しさや、ジョンが船外に落ちそうになる場面の迫真性と臨場感を味わうのには、帆走の知識なんか格別必要ではないのである。

実を言うと、今回の再読1回目に一番感動したのは、そのような劇的な場面ではなかった。(もちろん十分に楽しんだのだが。)そのあたりは他のどの作品のどの場面よりも良く覚えていたので、却って意外性や新鮮さを味わうというわけにはいかなかったようである。新たな感動を覚えたのはもっと別のところにある。

海の色が変わりだした。今まで、海は夜のやみのように黒く、あまり黒くて白い波頭さえ見えなかった。・・・<略>・・・前方には水平線上にうすみどり色の空が見えていた。鬼号が一晩じゅう動いていた小さな世界が、ひろがりだしていた。

霧とはげしい雨と、つづいて夜が、子どもたちを船だけの世界にとじこめていた。子どもたちは、今はじめて、海がどんなに広く、鬼号がどんなに小さいかを実感した。

目がくらむような火の点が雲の真下にあらわれると、まばゆく目を射る長い光線がおどる海をこえて、子どもたちの方につき進んでくるように見えた。・・・<中略>・・・光が奔流のようにひろがった。

引用したい部分はまだまだある。とにかく海の描写が素晴らしい。特に「小さな世界が広がり出した」「夜がとじこめていた」などという表現は、海上で孤独な夜明けを迎えたことのある人間でなければ書けない。長年ヨットに親しんだランサムとって、こうした描写は自家薬篭中のものだったのだろう。

それと「お約束」のこと。以前も書いたが、ウォーカー家が中心の物語では、親と子の関係が目についてしかたがない。何かをする前にきちんと約束させて、あとは子どもたちを信頼して任せる。子どもたちの方もその信頼を裏切らないように、自らを律することを忘れない。これは理想的な親子関係である。ううむ。子どもは本来このように育てなければいけないのだが、それは口で言うほど易しいことではない。まず第一に、ここまで至るまでの幼少時のしつけがしっかりしていなければならない・・・

父親が軍人だというのも大きいのかなぁ。高校時代の友人に父親が自衛隊の幹部だった人がいたが、彼女もどこか折り目正しい感じで、自律的な雰囲気を漂わせていた。

鬼号がたどりついた港がオランダのフラッシングだったことははっきり覚えていた。オランダ国旗を覚えたのもこの作品のお陰だし、オランダ旅行をしたとき、よっぽどフラッシングに立ち寄ろうかと思ったくらいなのだ。「地球のホントの歩き方?」にも書いたが、あそこは世界で一番良く英語が通じる国。水先案内人が英語を上手に話すところは、大納得の巻。

小さなオランダ人形を買ったが、人形の服装は、ロジャが木靴をはこうとするのを店の入口から見てくすくす笑っているオランダの少女たちのひとりにそっくりだった。

今からほんの60~70年前には、こんな情景を目にすることができたのだ。つくづく羨ましい。近代化の歴史は郷土色や民族色を消し去ってきた歴史なのだ。私が海外旅行に出かけられるのも、まさしくその恩恵によるのだから、文句を言えた筋合いではないが。

最後に疑問&余談。(今まで書いたこともほとんどが余談かな?)オランダに入国するときは何もなかったのに、イギリスに入国するときは検疫を受けなければならないのはなぜなのだ? よく言われるように、「イギリスはヨーロッパではない」のだろうか? 今だって、ヨーロッパ大陸の国に入るときは、パスポートを見せてもハンコ一つ押してくれなくて、むしろ物足りないくらいなのに、ヒースローの入国係官だけがやけにネチネチと嫌らしい・・・あ、脱線しすぎ。
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by foggykaoru | 2007-03-27 20:16 | 児童書関連 | Trackback | Comments(0)

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